2005年04月21日
日本男児への挑戦状
寺町幸枝
男性ファッション雑誌Mには、毎号「ファションスナップ」というページがある。撮影会が実施される場所は誌面で事前告知され、毎回スナップのモデルを選ぶ担当「スタイリスト」の名前も公表される。そして選りすぐりの「一張羅」を着込んだ少年/青年たちは集合するのである。彼らにとって雑誌のファッションページに載るというのは、自分のおしゃれ度を証明する手段なのだ。東京・原宿の表参道と明治通りの交差点では、高い頻度でこのような雑誌関係の撮影隊による「キャッチ」が行われているのだが、このあたりで働き始めたばかりの若いショップスタッフは、休憩時間の度に足しげくこのあたりへ向かい、必要以上に行ったり来たりしたりして、声がかかるのを待っている。
女の子版「キャッチ」をしていた経験を振り返ると、4、5年前は、いわゆるCやJから始まる某雑誌から声がかかるのをまっている「私を見て!素敵でしょ!」と言わんばかりの女の子が街にあふれんばかりだったと記憶している。ところが今では、「視線」を気にするのは女の子ではなく、むしろ男の子たちのようなのだ。
ところが、この男の子たちはなんだか「美しくない」のである。汚いというか、清潔感にかけるというか、なんだかシャキっとしてないのである。彼らはどこの国の男の子よりも、「高額な」アイテムを身に付け、貪欲なまでに気に入ったブランドを追い求めるというのに、その結果が「素敵でない」。なんとも残念な話だ。日本女性たちが、ブランドに走っても、その美しさにかける「気合い」と「一途なこだわり」から、今では世界から<一番おしゃれな子たち>と認められるところまできたにも関わらず、日本男児の評価はあまり耳にしない。このままでは日本女性の興味でさえ、「韓国男児」へ移ってしまうかもしれないというのに。
「だらしなさ」。その一言にすべてが集約されているように思う。服に着られている人の多いこと。「自分」を表現するためのツールとして、ファッションを使いこなすところまでいっていないのである。ファッションは、話し方、歩き方、考え方、生き方全てに結びついてくる。自己表現だけでも十分でなく、また単純に服を知っているだけでも不十分。それは流行の髪型とか、流行のブランドに精通しているからと驕るのもおかしいのであって、自分はおしゃれに興味がないからといって、何も考えずにろくに洗濯もしないで身近にあるものを着ている人と結局何も変わらないのである。ブランド品に走ってもいい、眉毛を手入れしてもいい。ただシェル(外側)を手に入れても、見合うだけのコンテンツ(中身)を持たなければ、宝の持ち腐れである。白須次郎やジェームス・ディーンの白いTシャツと履き馴れたデニム。それはまさに身も心もおしゃれである人の、自分のあるべき姿を「意識」しているというところから生まれた、究極の清潔さに基づくおしゃれであって、現代日本の若者はむしろ余計なものを着込みすぎているのかもしれない、と感じる今日この頃なのである。
投稿者 寺町幸枝 : 2005年04月21日 14:40 | [EDIT]
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