2004年09月14日
カジュアル・セックスと「ジャパニーズ・エロティシズム」
渋井哲也
「冬のソナタ」や「世界の中心で愛を叫ぶ」など、純愛ものがはやっていますよね。以前、東京新聞のコラムに書いてあったのは、どうやら10年周期で「純愛」ドラマがはやっているというものだった。しかし、10月号の「ダ・ヴィンチ」はそんな時期的な問題とは別の分析をしている。
読んでいると納得するものがあった。
「ジャパエロ道五つの極意」によると、
其の一 ジャパエロとは、秘める事と心得るべし
其の二 ジャパエロの至極は、しのぶ事と見立て候
其の三 ジャパエロの肝要は、焦らす事なり
其の四 ジャパエロたる者、縛るがよし
其の五ジャパエロといふは、死ぬ事と見付けたり
なるほど。どれもこれも、古典で描かれてきた恋愛イメージだった。
しかも識者コメントも、なかなかだ。
「殺し屋1」や「ホムンクルス」の原作ブレーンをつとめる精神科医・名越康文氏は、
「予測不能の、精神や身体が急激に変わる状態って恐いじゃないですか。それが怖れです。こうした感情を無視した恋愛なんて、単なる日常にすぎません。もちろん、日常的な恋愛もいいですよ。でも、それは退屈ですぐにダレてしまう。非日常性というのは恋愛の特権。だからこそ、恋愛の本当の決め手はセックスそのものではなく、怖れをもつことなんです」
たしかに、恋愛は思い通りにならないジレンマがあるのが、ひとつの魅力ですよね。声を聞きたくても、なかなか聞けない。会いたくてもなかなか会えない。手を握りたくても、なかなかできない。セックスしたくてもなかなかできない。だからこそ、できたときの「非日常性」が光り輝くわけですよね。
でも、いまの現実は、セックスがカジュアル化していますよ。
ある統計でも、セックスの初体験年齢が下がっています。経験人数も増えてきている。セックスそれ自体はそれほど非日常性はないわけです。コンドームだって、しなくなるわけだしね。ちなみに、コンドームの販売数は激減している。90年ごろに、エイズ日本人一号が出た報道があったときよりは半数以下。内閣府の調査でも、セックスでコンドームをしていない人がけっこういます。理由は「相手が感染していないから」(それって、どうやって確認しているのだろう?)。
そうした現実をふまえてコメントしているのは、評論家の宮崎哲弥氏。
「かつてセックスは、恋愛において特別な経験だった。それによって相手が自己を全人的に許容してくれたかのような感覚があった。そういった“ロマンティック・セックス”という幻想は、今はもう完全に消えてしまった」
なるほど、たしかに、恋愛をしていない関係でも、セックスはできるわけだしね。友人間のセックスばかりではなく、誰だか分からない人のセックスも特に珍しくなくなってきた風潮は実際にある。そうしたイベントもなくはない。だからこそ、セックスなき物語に逆にはまっていくのか。
「『世界の中心で、愛をさけぶ』も『いま、会いにいきます』も、ストーリーの中にセックスが出てこない。もしくはさほど重要な要素として描かれていない。大きなアクセントとなっているのは、“死”です。“喪失”といってもいい。“もはや存在しないもの”を懐古する形で描かれている。他界に逝ってしまった相手との関係を思念することによって、愛が純化される。」
「セックスの敷居は低くなったけれど、愛の敷居は限りなく高くなっている。セックスは簡単にできるけど、愛が本物かどうかなんて確かめようがない」
そういえば、「Deep Love」も、「神様、もうすこしだけ」も、女子高生の死がテーマとなっていた。「高校教師」も、ファーストは女子高生と男性教師が心中。セカンドは男性教師だけが死を背負う。愛は、死を背負うことで、純粋になる。そうした物語はけっこうあるよな。
カジュアル・セックスの時代だからこそ、「ジャパニーズ・エロティシズム」がはやる。
取材をしている女の子たちも、そういえば、セックスの敷居は低い。でも、そもそも「愛」を放棄しつつ、あきらめつつ、関係を続けるか。セックスだけでは愛を感じられず、関係性を崩壊させていくか。そういうパターンが多い気もする。
神秘性を失ったセックス。
そうなったことで、純愛が神秘性を持ったのか。
投稿者 渋井哲也 : 2004年09月14日 00:58 | [EDIT]
