2004年09月11日
田舎の少年の素敵な冒険
成田好三
日本人をすべて「夜型人間」にしてしまったようなアテネ五輪が終わった。新聞の紙面を埋め尽くし、TVの放送時間枠をほぼ独占した「アテネフィーバー」もやっと終わった。1964年の東京五輪と同数の金メダル16個を獲得したのだから、日本中がアテネ五輪に夢中になったのも当然のことだった。
スポーツの最高の舞台である五輪は、人々の想像力と創造力を強く刺激する。これからは、アテネ五輪にインスピレーションを受けた「創作物」が様々な分野で生まれてくるだろう。
アテネ五輪は、筆者の脳みその奥底に眠っていた古い記憶を呼び覚ました。中学時代の記憶だ。古い記憶は、こんな「物語」となって脳みその表層に再び浮かび上がってきた。
■革命的技法「背面跳び」の誕生
1968年のメキシコ五輪で陸上競技に「革命」が起きた。走り高跳びにおける「背面跳び」の誕生だ。この奇妙な跳び方――当時はだれもがそう思った――を見て驚いた記憶がある。
米国の大学生、ディック・フォズベリーは自ら考案したこの跳び方で、メキシコの金メダリストになった。超人的な体格と筋肉をもつ有力選手に比べ、彼は普通のジャンパーに見えた。だが彼は五輪新で優勝した。彼の革命的な跳び方の勝利だった。
1990年代に男子走り高跳びは黄金期を迎えた。北欧の貴公子と呼ばれたパトリック・ショーベリ(スウェーデン)と褐色の肉体美を誇ったバビエル・ソトマヨル(キューバ)の両雄が競い合って世界記録を塗り替えてきたからだ。
彼らの跳び方はむろん背面跳びだ。フォズベリーがメキシコで成功して以来、それまで主流だった正面跳び、ロールオーバー、ベリーロールを試みる競技者はいなくなった。
■独創的な跳び方は唯一のルール違反
ここで話は突然、筆者の古い記憶に移る。中学生だったから、東京五輪とメキシコ五輪の間の記憶だ。
運動神経は抜群にいいのだが、背の低い友人がいた。彼は体操が得意だった。放課後だか休み時間だか忘れたが彼は突然、それまで見たこともない走り高跳びの技を披露した。
彼の技は今も記憶の片隅に残っている。バーの正面から走り込んできて両足で踏み切り、体操のあん馬のように頭からバーを跳び越え1回転して着地する。背が高く運動神経に自信のあった友人たちは、いたくプライドを傷つけられた。背の低い友人が彼らの記録を軽く超えてしまったからだ。
それから仲間たちは彼の跳び方に夢中になった。それもしばらくの間だけだった。
体育大学を出た先生が彼の独創的な跳び方を禁止した。当時の中学校の走り高跳びは砂場の前にバーを置いただけだったから、彼の跳び方では危険きわまりない。それ以上に決定的な「宣告」が先生からあった。
今思い出せば、こんな内容だった。
走り高跳びのルールは、競技者が片足で踏み切らなければならないという以外には何の制約もない。だから、両足で踏み切るのは唯一のルール違反だ。
友人と仲間たちの独創的な走り高跳びの技法はそれで終わった。
フォズベリーがメキシコで革命的な走り高跳びの技法を披露する前に、日本の田舎の片隅にも、とびっきり素敵な冒険を試みた少年がいた。(2004年9月11日記)
投稿者 成田好三 : 2004年09月11日 23:00 | [EDIT]
