2004年05月06日

イラク人質バッシングの国民性

岩下慶一

イラクでの日本人ジャーナリスト誘拐事件は各方面に波紋を投げた。
人質となったジャーナリストに対する批判と擁護の意見を聞きながら、イラク問題の当事国である米国(派兵している以上日本も立派な当事国だが)に在住する身として、祖国の世論の盛り上がり方に少々違和感を感じざるを得ない。
解決後盛り上がった人質批判の要諦は、「再三の避難勧告にも関わらず危険地帯に赴き、結果として国家に多大な迷惑をかけた」という事である。人質となった方々が、どの程度の覚悟で出かけたのかは分らないが、軽はずみな部分があったのだとしたら、それなりの謗りは避けられないだろう。人質救出のために政府が使った費用と時間は膨大なものに違いないのだから。また、それに対して謙虚な感謝の念を表すのも当然の礼儀と思う。一方で、ジャーナリストとしての取材する権利、NPOとして活動する権利はどうなるのだ、という言い分にも理はある。個人がどんなに望もうと、完全な自己責任というものは存在し得ない。日本国民である以上、その身に何かあった時には国家が介入するのは当然だし、どこまでも自己責任にこだわるなら、危険地帯、紛争地帯の取材は不可能という事になってしまう。今回の事件によりフリーランスのジャーナリスト活動が制限されるような事にでもなれば、これは由々しき問題だ。

結局のところ、和を重んじる日本の家族的風土が必要以上の人質バッシングにつながったのだと思う。「あんな所に行かなくたって…馬鹿な事をするからだ」というのが人々の思いなのだろう。これが、まかり間違って人質の身に何かあったら、人々はバッシングよりも哀悼を表したに違いない。行き過ぎはあるにしても、日本人の善良な国民性の裏返し、と取れないこともない。しかし、今ひとつ払拭できない疑問が残る。
同胞を不法に監禁し、その生命を脅かしたテロリストに対する怒りがまるで感じられないのは何故なのだろう。彼らは日本国民を誘拐し、不当な要求を日本政府に突きつけたのだ(自衛隊派遣の正当性とは別問題)。人質に対する怒りの半分は、少なくとも誘拐犯に向けられるべきだろう。しかし、誘拐犯とそれを生み出したイラクの社会的背景について興味を持っている日本人はあまり多くないように映る。911のテロの時にも同様の疑問にとらわれた。当時、ワールドトレードセンターにオフィスを構えていた日本企業の駐在員や観光客等、30人以上の日本人が瓦礫の下敷きとなって亡くなった。しかし、テロを米国の中東における覇権主義の結果と捉える第三者的な論調はあっても、自国民30人を殺戮したアルカイダに対して憤激する声は殆ど聞こえてこなかった。同じ年に起こったえひめ丸衝突事件と比較するとあまりに対照的である。若い9人が命を落とした事故はもちろん悲惨だし、その責任は徹底的に追及されるべきだが、それにしても日本の反応はある意味過剰と言えた。米国政府の遺族に対する補償や艦長の刑事責任追及を含めた対応は、少なくとも不誠実なものではなかったが、それでもマスコミの米国に対する攻勢は収まるどころか勢いを増すばかりだった。他方、自己の主義主張を貫くために罪のない民間人を犠牲にする事を厭わない無法集団に対して、突如として怒りの一半を減じてしまう不思議さ。

結局、中東問題に対する当事者意識の欠如なのだろう。すべては石油問題も絡んだ中東と西側諸国の対立で、日本はあくまで第三者、出来ればあまり首を突っ込みたくない、というのが日本の本音に違いない。しかし、イラクからの石油輸入量が米国に次ぎ第二位である日本は、中東、西側のどちらから見ても立派な当事国だろう。イラク、ひいては中東に対しての日本の思想・対応を問われた時に、世界を納得させるだけの意見を日本は持っているのだろうか。

投稿者 岩下慶一 : 2004年05月06日 00:37 | [EDIT]

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