2004年06月04日

佐世保事件異聞・問題の本質

鷹井 潤

 かつて池田小事件が起きた時、小学校の警備体制の甘さが槍玉に挙がった。学校関係者にとっては晴天の霹靂と言うべきだろう。外部からの突然の侵入と攻撃など、当時の小学校の運営マニュアルにはないだろうからである。かくして侵入を阻止すべく多くの小学校で構造的対応と警備機器の設置が導入された。ママさんたちの私設警備隊が小学校の周囲を「巡警」する姿が目立っていたのもこのころである。危機意識が持たれるのは結構なことだ。しかしながら本件のようなケースの場合、実際に完璧を期することは相当に難しいだろう。

 小学校の目的は本来教育であって警備ではない。この男であっても十分な教育がなされているはずであった。彼は突然地上に出現したモンスターというわけではない。彼も小学校に通っていた時代があったはずである。この事件の内容からして、すでに顕在化している相当な問題を抱えていたことも推測される。犯罪類型の経験則からして、子供を対象とする犯罪ほど、犯行者には子供時代にさかのぼる問題があるからだ。小学校に慰霊碑ができ、男の死刑判決が確定しても、それで終わりというわけではない。男は謝罪を口にしなかった。遺族はこのことにさらに愕然とさせられた。せめてこの不条理を解明、つまりどのような経緯でこのようなことになったのか、公にしてもよいのではないか?公的教育、精神科医の治療、矯正教育も、結局効をなさなかったのだから、丸ごとプロセスを解明することには意味があろう。

 そして3年後、佐世保事件が発生した。危険は外側だけではなかった!そしてキーワードは「普通の子」である。この子供の精神構造を解明しようとする努力は、それはすでに少年鑑別所で行われていることであるが、何かが発見できるかも知れない。が、真の問題は「普通の子」に見えることではなかろうか?子供は逸脱によって大人になる。虫を残虐に殺し、命というものを知る。誤ってナイフで手を切り、刃物の危険さを知る。いじめとけんかの中で、自尊心と寛容を学ぶ。本来これが「普通の子」だろう。大人は子供が理解しがたく変わったというが、同じように変わってしまったのは大人の感覚なのかも知れない。

 この事件以後、全国の小学校では厳重なナイフの管理が行われつつあるらしい。もっとも分かりやすい方法であるが、実際は悪意によってどんな物でも凶器になりうる。この発想はまるで役人の処世術のようだ。かくして先の事件対応を継承し、小学校では厳重な警備、物品管理体制が完成しつつある。これで生徒一人一人の綿密な身体検査を実施すればまるで監獄である。一方で叫ばれる「心の教育」とそれがどのように整合していくか見届ける必要があるだろう。困った時の精神主義が、現実問題を解決したという例を私は知らない。

投稿者 鷹井 潤 : 2004年06月04日 21:41 | [EDIT]

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